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中平卓馬 documentary

 中平卓馬 documentary

2箇所同時開催の写真展と写真集

中平卓馬の写真を評して、あるがままの世界を、というような表記を多く見る昨今、そんなんじゃあねぇだろう、と、言いたくなる
どこがどうあるがままなんだ
あんたは毎日、こんな世界を見ているか?

人間の投げかける凝視から、世界というものの実質は、言葉や、経験や、記憶や、習慣や、クセなど、ありとあらゆる障害によって守られている、もしくは、人 間の凝視は、言葉や、経験や、記憶や、習慣や、クセなど、ありとあらゆる障害によって妨げられていて世界の実質に届かない。
見る前にすでに記憶がある。参照すべき情報がある。
よって、世界それ実質を僕らは見てはいない。世界の手前までで僕らの視線は自らの言葉や、経験や、記憶や、習慣や、クセなど、の障害に出会い、止まってしまっている。
だけれども、ふとした光の加減、角度、により、世界と僕らの間にある障害が置き去りにされてしまうときがある。思わず実質が見えてしまうときがある。
そのとき、僕らは世界と対峙する。何度も見て来たはずのものを初めてみるかのように見ることになる。そして、以前に見たものと同じものなどはない、という自明のことを思い出す。
その凝視と世界との直接のぶつかり合い、中平卓馬は、それをとらえている。
だから、ここにあるのは、見栄えのする構図や、美しいと感じさせるような絵ではない。
出会う、その隙間。言葉や、経験や、記憶や、習慣や、クセなど、ありとあらゆる障害が幾重にも折り重なって隠されているその向こう側が、思わず見えてしまったその隙間。
思わず身体が硬直してしまうような、その場面。
中平卓馬が撮影しているのは、まさにそのような瞬間なのだ。

だから、中平卓馬の写真は、写真展には向かない。

かつて、写真はその複製可能性に本義がある、とした中平卓馬が、大量複製される印刷物をその最も適した媒体に選び、オリジナルが存在するプリントによる写真展を否定したのとは異なる理由で、写真展には向かない。
一枚一枚との出会い、凝視のぶつかり合いが保存されている写真は、一枚一枚と出会うべき写真であり、水平方向に広がり続け、となり同士の写真が視覚に影響しあう写真展、というメディアは向いていない。
中平卓馬の写真展で、写真を鑑賞するには、左右の写真が気にならないくらいの距離まで近づくことが必須となる。

んでは、言葉に代表されるあらゆる経験則を置き去りにして写真を撮っているのは、優れた写真家ってぇのには、そういう人は他にもいるんじゃあないの?とい うのもあるかと思うけれども、確かにその通りで、優れた写真家は、経験則から自由なところで、初めて見たものを提示してくれる
そこにどういう違いがあるかというと、それは、優れた芸術家の描く、造形する、そういうものが、初めて目の当たりにしたような美しさや感動や感情や文脈やらを定着する、ということと、マルセルデュシャンのやったこととの違いだ。

中平卓馬は、だから、デュシャンなのである。レディメイドである。

と僕は今のところ結論づける
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